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    論説


    1: オムコシφ ★ : 2013/10/31(木) 02:59:57.05 ID:???
    黒子のバスケ脅迫事件が一段と深刻さを増しているようです。

    昨年から関連イベントが脅迫を受けて、続々と中止を決定し、しばらくは動きがなかったのですが、
    今月に入りセブンイレブンのウエハースに毒を入れたとの脅迫があり、セブンイレブンはこれを撤去。
    さらにはツタヤにも脅迫状が届き、11月3日までにツタヤ全店で関連商品を撤去するそうです。
    「黒子のバスケ」TSUTAYAから全商品撤去へ レンタル・販売中止に → 「事実です」 – ねとらぼ
    http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1310/28/news128.html



    この事件、犯人の動機が判然とせず、反抗も1人での反抗なのか、複数なのか、
    長期に渡り話題を呼んだために模倣犯が出ているのかもハッキリしませんが、問題が長期化して沈静化する気配を見せず、
    それどころか深刻さを増しつつあります。

    各企業やイベント運営側の対応は、犯人の目星がつかない以上、致し方ない部分もあると思います。
    現代は評判のリスクが増大していますから、仮に脅迫状を無視して販売を続けて万一被害が出た場合、相当な炎上を覚悟する必要があります。
    お店だけでなく黒子のバスケそのものの評判も今以上に著しく損なわれる可能性が高い。

    しかしツタヤの他にも今回は三省堂書店、ジュンク堂書店、
    紀伊国屋書店にも同様の脅迫が届いているようですが、今のところ撤去の予定はないようです。
    「黒子のバスケ」、TSUTAYAから撤去 脅迫状届く:朝日新聞デジタル
    http://www.asahi.com/articles/TKY201310290091.html

    この対応の差が今後どのような結果になるのかわかりませんが、本当に何事もなれけばいいな、と思います。


    それにしても、リスク社会化とはこういうことなのかとつくづく思います。
    爆弾のような大掛かりな爆弾も必要なく、脅迫状ひとつでここまでの悪影響を社会にもたらせてしまう。

    規模はまるで違うけど、911を思い出します。
    ワールドトレードセンターに突っ込んだ飛行機をジャックした犯人は対して武装をしておらず、
    ナイフ1本であのビルを崩壊に導いてしまいました。
    宮台真司氏の言い方を借りると、一匹のネズミが社会に紛れ込んだだけで崩壊するおそれのある社会の到来を911は告げていたとなりますが、
    黒子のバスケに対する社会の右往左往ぶりもそれと同じような点があるように思います。
    アメリカではそうした一匹のネズミをあぶりだすために愛国者法などができたわけですけども。

    9・11は、ハイテク社会化を逆手にとったハイジャック犯が、ナイフ一本でツインタワーを崩壊させた。
    それどころかナイフさえ必要ではない。
    時間をかけて原発職員や旅客機操縦士になった上でシステムを暴走させれば、ハイテク社会はひとたまりもないからだ。

    ■リスク社会化の核心は、ハイテク社会に紛れ込んだたった一匹のネズミが社会を崩壊させ得る点にある。
    リスク社会化が進めば“「社会よりも国家が恐い」から「推定無罪」で行け”に代わり、“「国家よりも社会が恐い」から「推定有罪」で行け”がリアルになる。 MIYADAI.com Blog

    国家による規制もたしかに怖いのですが、現代では個人の脅迫による抑圧も同様に相当に恐ろしい。
    今回の脅迫も事実上の表現規制として機能してもおかしくありません。
    幸い藤巻先生と集英社、アニメを放送しているMBSに関しては今のところ屈するつもりはないようですが。


    表現を規制するものは何も公権力だけではないのですね、今の世の中は。


    警察には一刻も早く犯人を捕まえて頂きたいとと願うばかりです。

    http://hotakasugi-jp.com/2013/10/29/kurokonobasuke-kyohaku/

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    1: オムコシφ ★ : 2013/07/30(火) 14:47:13.85 ID:???
     青春をテーマにしたキラキラとした作品を見ていると、現実味がまったくないなぁと思って馬鹿にしてしまう。
    しかし同時に、誰もが青春と聞いて想像するような典型的な要素がたっぷり詰まっているせいで、私の中のそれらに対する憧れの呼び水になって虚しい気分にもさせた。あぁ、私の青春はなんてつまらないのか、こんなにも何事もなく過ぎていくのか、と。

    「若さには何の価値もない」

     そう断言するのは、有名映画監督の押井守氏である。
    今回読んだ『凡人として生きるということ』(幻冬舎)の著者であるのだが、本書で語られる彼の価値観は、彼の作品から受ける印象とは違う。
    SF作品のイメージが強く、永遠に手に入れられないようなものを追求し、現実には物足りない何かを常に空想していたり、一歩抜け出そうとしていたり、そういったイタい人(すみません)かと思っていた。

     しかし、彼の持つ価値観は現実的過ぎるほど現実的で、現実の中に夢を見てる私たち若者の期待すらもものの見事に打ち壊していく。
    彼の作品は、現実に蔓延る様々なデマゴギーへのアンチテーゼなのだと思うと、すごく合点がいくのだ。
    見えないようにされている現実を剥き出しにされ、それを非現実と感じてしまう私たち。
    そんな私たちに、まんまと社会が作り出したデマゴギーに騙されていると彼は言う。

     話は戻るが、「若さには何の価値もない」というのは、若さだけを武器にしているような若者にとって、あまりにもツラい宣告である。
    特に現代の若者は、経験もスキルも常識もないことへの言い訳として振りかざすものも目立つからだ。
    ただ「何もできない自分」を認めることもできず、かといって未知のモノ達にベクトルを向けてみるエネルギーも持たない状況への免罪符。
    つまり、何でも自分で切り開いて手に入れていかなくてはいけなかった時代とは異なり、何もしなくてもどうにかなるだろうという風潮が現代の若者の多くに根付いてしまっているのだ。
    他人にも社会にも仕舞いには自分にも無関心だ。

     とはいえ、今よりも素敵な人になりたいとぼんやりと考えることもある。
    しかし、いつまで経っても過去に思い描いていた未来の自分には到底なれていない。これは今までずっと起こり続けてきた現象だ。
    小学生の時は高校生はすごく大人に見えたし、お洒落で楽しそうで自分もあんな風になるんだろうなと勝手に思っていた。
    でも、実際に高校生になってみると、なんてことない毎日の延長上にいて、特別何かが急に変わって輝き出すなんてことはなかったし、ましてやちっとも大人でもなかった。
    大学もそう。ドラマで見ていたようなキャンパスライフは都市伝説なのかと思うほど、素敵な学生生活とは程遠かったのだった。
    それでも、過去を振り返ると美化された思い出がそれなりの輝きを持って見えてくるものだ。
    いつだって、遠い未来に理想を求め、遠い過去に美しさを求めるのだ。

     どうやら、「今」という地点に、「現実」に、しっかりと目を向けられていないらしい。
    本書では「世間の95%は凡人である」と語られている。
    圧倒的なこの凡人の私たちがすべきことは与えられた現実の中で、「自分の美学」(信念)と「情熱」を持って生きることだという。
    今のままでいい、今の自分で胸張って生きていく、ここで生きていく、という現実と向き合って決意を固められるかどうかという単純なことなのかもしれない。
    過去を振り返って若かりし頃の自分に留まり続けることも、今の困難や不自由さから無理に抜け出そうとすることも、どちらも無意味であるように思えた。
    自分を認めて、限りなく自分でいること。単純なはずなのに、こんなにも難しい生き方は他にない。

    文=カナコ
    (ダ・ヴィンチ電子ナビより)



    http://news.nicovideo.jp/watch/nw708957

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